ロゴスウェア創業ストーリー
LOGOSWARE
1984年、石神は新卒でインテルに技術者として入社した。
当時のインテルは今ほどの大きな企業でもなく、有名でもなかった。
しかし「革新のインテル」と呼ばれ、DRAM、EPROM、MPUなど半導体製品の新製品はことごとくインテルが発明しており、その革新性に惹かれた。
やがて、パソコン革命が始まった。
毎年劇的な進化を遂げるパソコン。ネットワークでつながり、ビデオが動き、3Dが動き、音楽を奏でるようになった。バッテリーで動くようになり、外に持ち出せるようにもなった。それは、仕事のやり方を変え、人々の生活を変えていった。
パソコンにマイクロプロセッサを供給するインテルはその中心にいた。
インテルは単なる部品供給メーカーではなかった。Wintelと揶揄されるように、マイクロソフトとともに、パソコンのアーキテクチャの業界標準を開発し推進していた。
世の中が変わっていく、それを自分たちがやり遂げているんだという興奮。
そのような夢中になれる環境の中で仕事が出来た毎日は楽しかった。
そして、インテルは大きな会社になり、安定した会社になり、有名な会社にもなった。
技術者として仕事をスタートさせた石神は、その後、マーケティングに移り、2000年当時は、マーケティング部部長の地位についていた。地位はあった。報酬も良かった。
しかし、熱狂が失われた。
もはや、パソコンは成熟した製品になったのだ。
それにともない、毎日の仕事も同じことの繰り返しになった。
「地位も、十分な報酬もある。しかし今の仕事はもはや興奮をもたらしてくれるものではない。このままでいいのだろうか・・・」
そこにインターネットが登場した。人々の興奮と熱狂はインターネットに移った。
これから先、世界を動かしていくのはもはやハードではない。
世界を変えるのはインターネットだ。それは誰の目にも明らかだった。
「インターネットの世界でもう一度、あの高揚感を味わえないだろうか」
石神はぼんやり考えていた。
インターネットがどんな未来を作り出すかについてみんなが語りだした。
世界では「テクノロジーで世界を変えてやろう」という哲学のもと人が集まり、真剣に取り組んでいる。日本でも、いくつかのネットベンチャー企業が作られ、注目を浴びていたが、その多くがゲーム、ショッピング、広告、その他エンターテイメント系の企業であった。
石神は違和感を持った。
「日本人に本当に必要なものはそんなものか?」
1990年代以降、好調を維持するアメリカ経済に対して、日本経済は低迷を続けていた。
外資系企業の中で仕事をしてきた石神には、日本人は何か重要なものを見失っていると感じられた。
ある日、アメリカ出張中の石神は、シリコンバレーのサニーベールという町にいた。
シリコンバレーは、多くのハイテク企業が本社を構える刺激に溢れた土地だが、中でも石神が足しげく通ったのが「Computer Literacy」というコンピューター関連書籍の専門書店だ。
日本では手に入らない知識の山に囲まれて過ごす時間は、創造性を刺激し、思考に自由を与えてくれる。
限られた時間の中、店を出るときはいつも後ろ髪を引かれる思いだった。
新しい知識を得られたことに満足する一方で物足りなさも感じた石神は、今しがた自分が後にしたばかりのComputer Literacyを、何気ない気持ちで振り返った。
「次にここに来られるのはいつだろう?」
「次にこの創造的で自由な時間を享受できるのはいつだろう?」
するとその時、石神の脳裏に1つのイメージが浮かんだ。
それは、目の前のComputer Literacy が丸ごとインターネットの中に存在し、世界中の全ての人に知識を供給するイメージだった。
「インターネットによって世界が結ばれたというのに、知識を得るためにはるばる10時間もかけて太平洋を渡らなくてはならないなんて馬鹿げている。インターネットによる知識の提供、つまり”教育”こそが、自分が探し求めていた”未開の地”ではないのか?」
石神が知識に対して特別な思いを抱いていたのには理由がある。
インテルで働く中で「知識の力」を身を持って実感していたのだ。
インテルには「地位の力」と並んで「知識の力」を重視する文化があり、この文化こそが個人の自由で創造的な働き方を支援し、インテルの成長を支えるのを目の当たりにしていた。
「インターネットを通して世界中の人に”知識の力”を提供し、誰もがより自由で創造的な人生を送ることができたら」
インターネット上の書店のイメージが、人々が自由に生き生きと活動する世界のイメージに姿を変えたとき、石神の心は決まった。
自信があったわけではない。
だがこのままインテルにいても、自分の思いを達成できないことだけは確かだ。
覚悟を決めた。
それならすぐに動いた方が良い。
インテルを辞め、自分で会社を立ち上げることにした。
2001年7月、ロゴスウェア株式会社設立。
ロゴス、すなわち真理を伝える製品を作る、という気持ちを込めて名付けた。
――― 真理はあなたたちを自由にする(ヨハネによる福音書) ---
そして、自分たちが達成すべきミッションを確立した。
インターネットや情報技術を使って学習に革命的進化をもたらすこと。
そしてそれにより、育った環境や働く環境の差を乗り越えた学習機会の平等を実現させること。
「世界中の人々が自由で創造的な人生を送るための製品を作る」
石神は新たなスタート地点に立った。
会社を設立すること自体はとても簡単だった。法務局に登記をするだけで出来てしまう。
しかし、会社を維持し、安定させ、成長させる仕事は困難を極めた。
事業計画書らしきものを書いてみた。が、何の役にも立たなかった。
目の前に起こることは、今までの人生で経験したことのない、そして何が正しいのかすら分からない難問の連続だった。
答えの分からないものに、そして、間違ったら谷底に転落するかもしれない状況で、最終決断をする恐怖感を何度も味わった。
会社を設立して、最初の最大の難問は顧客を作ることであった。
「実績、信頼、何もない会社がどうやって仕事をとってくればよいのか?」もっとも苦しい時期だった。
営業・プレゼン・交渉、すべて自ら足を運んでどんな人でも会いに行った。
まったく仕事に結びつかないこともたくさんあった。だから、仕事があればどんな要求でも努力して応えた。
朝も夜もなく働いた。下請の孫請けの仕事もたくさんあった。不条理な要求もたくさんあった。
1番最初の仕事、2番目の仕事、3番目の仕事、……最初の頃の仕事のことは決して忘れることがない。
楽な仕事ではなかった、大きな金額を稼げた仕事ではなかった。
ただ、お客様からお金を払ってもらえる仕事が自分たちに出来たことがとても嬉しかったし、自信にもなった。
しかし、安定からはほど遠かった。
「なんとかもらった受託案件でやっと収入が得られた。しかし、これで社員の給料が支払えるだろうか・・・」
まさしく自転車操業。1年もたたないうちに会社の預金残高はゼロに近づいた。
石神は2年間、自分の給料ゼロ。貯金を切り崩して生活せざるを得なかった。
底知れぬ恐怖が石神を覆った。
土日でも休むことはなかった。忙しいというより、仕事をしていないと不安で仕方がないのだ。しかし石神は夢を捨てなかった。
「今はソフトの請負開発の仕事を続けるしかない。だが、いずれは自分たちのブランドの製品を開発して販売する」
「どうやったら受託開発型から製品開発型に転換できるのか?」
ある日、スタッフ会議はいつになく熱い議論が繰り広げられていた。
「潤沢な資金を持たない自分たちに出来る方法は一つしかない」
「受託開発で作ったソフトウェアを有効に活用して製品に転換させることだ」
「受託の仕事を選べない状況で、チャンスをひたすら待とう。そしてチャンスは絶対に逃さない」
ゴールエリアに入ってきたボールは絶対に逃がさずに一発でゴールを決めること
その1点に集中した。チャンスは何度もない。
数少ないチャンスをなんとか捉えて、現在に繋がる製品の原型のいくつかを作っていった。
2003年10月 | :スライド型プレゼン「LOGOSWARE PRESENTER(現:STORM Maker)」発表 |
2003年11月 | :Web会議システム「POWERLIVE」発表 |
2004年 8月 | :デジタルブック「LOGOSWARE SMART-BOOK(現:FLIPPER )」発表 |
製品は、作れば顧客がつくという甘いものではない。その上、機能面においても、品質面においても、サポート面においてもかなり不完全だ。
このような状況で、名もない企業の製品を買ってくれる顧客をどうやって探すのか?石神は、つくばに本社を持っているという利点を最大に活かしたマスコミ戦略をとることにした。
つくばは、筑波研究学園都市として有名で、国の研究機関が多く集積している。
その関係で、つくばには日本経済新聞の地方局がある。
どういう関係か分からないが、ベンチャー企業のニュースとしては東京発の物より、つくば発のニュースが取り上げられる確率が高い。
そこで新しい製品やサービスを開発するたび日経新聞に連絡をとり、デモを交えながら説明することにした。
これが功を奏した。2003年から2004年の2年間の間に、日経新聞や日経産業新聞に20回以上掲載される事に成功した。とくに PRESENTER(現:STORM Maker)やPOWERLIVEは日経産業新聞の1面トップ、カラー掲載を獲得。無名なベンチャー企業の信頼度を上げることに大きく貢献した。
このようにして、少しづつ、徐々にではあるが、製品を買ってくれるお客さまが増えていった。
それでもまだ財務基盤が弱かったので、少しづつ小さな改善を加え、徐々に理想的な製品へと進化させていく手法をとらざるを得なかった。
振り返れば、この手法こそ、自分たちが大きな道を踏み外すことなく、着実にビジョン達成に向けた製品を開発出来た要因になった。
未来が読みづらく不確実なこの時代を着実に進むことに適合していた。また、ラーニングの領域に的を絞ってミッションやビジョンを掲げていたことも、無駄な製品を作らず、かつ漏れなく製品体系が作れたことに貢献した。
2013年、今、ロゴスウェアは、いよいよ躍進のときを迎えることができた。
2001年の創業から12年の歳月がかかった。
潤沢な資金が無かったため、一歩一歩、受託開発型から製品開発型へ転換させ、ミッションやビジョンを達成させるための製品体系を構築してきた。
私たちは、これまでの12年間で、多くのことを学んだ。お金を払ってくれるお客様があっての会社であるということを学んだ。決して挫けずに、どんなときも目標に向かって進むことの大切さを学んだ。
私たちの学習革命への挑戦は、これからも続く。
日本はもとより、世界に挑戦したい、世界を変えたい。
今、世界挑戦へのスタートを切ろうとしている。
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